『慶長三年三月十三日付朱印狀(立花家文書)』「來年は禦人數指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり
眼看著影島海戰就要結束了,接下來將是慶長之役的轉折點“稷山之戰”,雖說借用了汗青上的稱呼,但詳細顛末絕對分歧,大師就彆急著百度了。
汗青上,稷山之戰過後日軍全線後撤,有人不睬解,眼看著打到漢城了,為何臨陣畏縮呢?
1、天然大明國者共、朝鮮都より、五日路も六日路も大軍ニて罷出、於陣取者、各談合無用捨可令註進、禦馬廻迄にて、一騎かけニ被成禦渡海、即時被討果、大明國迄可被仰付事、案以內候之條、於由斷者可爲越度事。
日本軍を1599年に再度朝鮮に調派する號令を発します。(很較著,是打算兩年後再度打擊,以勞敵師)
詳細根據便是上麵所列的質料:
綜上,熊仔以為稷山過後日軍並未全線敗退,而是計謀後撤(當時明軍的第二波救兵尚未到達,對日軍造不成威脅),以待療養厥後年再度打擊,如此持續下去,已達到疲敵的結果。
そんな中、秀吉は死去し、1599年の再出兵の計畫は流れます。秀吉の死とは関係なく、日本軍と決戦を計畫していた明軍は本土から大増援を得て、倭城攻略に動き出します。在番の日本軍の動きを抑えるため、三路に分かれて倭城に攻めかかりましたが、大敗します。(意義大抵是來年的反攻打算因為秀吉的死而流產,日軍的出兵打算也因為明朝救兵的到達而被迫中斷,而後便是蔚山、泗川、順天等地的日軍開端敗退了。)
這條最首要,秀吉的作戰目標是全羅道完整占據,忠清道和京畿道恰當攻占。稷山之戰光陰軍亦達到初期目標,隨後仍向北進入京畿道竹山一帶,也算是“恰當攻占”吧,以後纔是雄師南撤,可見稷山之戰對日軍並未形成相稱大的影響,也不存在所謂的敗北南撤一說。
です。さらに、再出兵の準備のため兵糧の備蓄などを朝鮮の倭城に命じ、著々と準備を進めておりました。
1、右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。
(大明の大軍が襲來したら餘自ら馬廻衆を引き連れて渡海し打ち破り、大明まで進撃しよう。)